[寫真] Hiro - SPECIAL INTERVIEW
SPECIAL INTERVIEW
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決して平たんではなかった。
水嶋ヒロが22年間で歩んだ道を振り返る。
この世界は"出会い"と"運"
デビューしてから﹑あっという間に2年がたちました。この世界
って﹑本当に"出会い"と"運"だなって思います。モデルをしていた
僕に﹑「役者をやってみないか」と﹑今の事務所が声をかけてくれた
のも"出会い"だし"運"。それから﹑『ごくせん』でドラマデビューし
て﹑『ブラザー☆ビート』に出させてもらって﹑1年が過ぎた。この
ふたつのはドラマは﹑ほとんどセリフがない役だったのに﹑次のドラ
マが『仮面ライダーカブト』の主役。これも﹑すでにオーディション
は終わっていたのに﹑面接でプロデューサーの方にお会いしたら﹑
僕でいきたいと言ってくれて。これだって"出会い"だし"運"だっ
て言えるんじゃないのかなって思うんです。
でも﹑正直な話をしてしまうと﹑僕は子どもの頃をスイスで過ご
していたので﹑『仮面ライダー』っていうヒーローの存在をあまり
よく知らなくて﹑それがどのくらい大きな役なのかを実感できず
にいたんですね。役をいただけたことを知った事務所の人たちが﹑
ものすごく喜んでいるのを見て﹑なんでだろうって思っていたく
らいです(笑)。だけど﹑撮影を始めてみて﹑その意味がよくわかり
ました。そのぶんプレッシャーも大きくなったし﹑"俺様が一番"な
天道総司は﹑自分の中にまったくないキャラだったので﹑役作りも
一からの手さぐり状態でしたけど﹑役者を始めて2年目という年
にこの役ができたことは﹑自分にとってものすごく大きな財產に
なりました。そして﹑『仮面ライダーカブト』をやりながら映画『ラ
ブ★コン』に出られたことも﹑とても意味のあることだった。好き
な子の前でしょっちゅう鼻血を出しちゃうような三枚目キャラで﹑
天道総司と180は度違う役。同時期にふたつのまったく異なる
役を演じたことは﹑僕にとっていい勉強になりました。
小さな頃は﹑內気で泣き虫
人前で演技をする職業につくことになるなんて﹑小さな頃の自
分の性格からは想像もできないことです。もの心ついた頃の僕は﹑
とにかく泣き虫で﹑人が嫌いで﹑幼稚園も大嫌い。朝になると"おな
かが痛い""頭が痛い"と仮病を使って﹑なんとか幼稚園を休もうと
するような子だったんです。普通は幼稚園の思い出っていうと﹑"遠
足に行った"とか"お遊戲をした"とかし楽しいもののはずじゃない
ですか。なのに僕には﹑ホントに泣いてるときの記憶しかないんで
す(笑)。教室の中にも入らずに﹑ひたすら家に帰りたくて園庭でひ
とり泣いている每日でした。走るのが速かったので﹑かけっこで1
位を取ったりすることも多かったんですけと﹑ゴールした後﹑みん
なかワーツと寄ってきた瞬間に泣いちゃったりとかしていたくら
いですから(笑)。家に帰ってきても﹑ひとりで遊んでいるのが好き
な子でした。3つ上に姉がいるんですけど﹑あんまり僕にかまって
くれなかったので﹑マヨネーズ片手に﹑よくひとりで外に散歩に行
っていました。あの頃はマヨネーズが好物で﹑道に咲いてる花や草
木につけては﹑パクパク食べていたんです(笑)。
そんなに內気で人見知りだったのに﹑小学校入学直前に﹑親父の
転勤で家族でスイスに行くことになったんです。親父はもともと
社会人サッカーチームの選手だったんだけど﹑体を壊してやめて
そのときはもう普通の会社員だったんで転勤もあって。その発表
はあるとき﹑外食先の中華料理屋さんでなされたんですね。親父が
珍しく﹑「今日は家族で中華を食べに行くぞ」って言ったから﹑僕も
姉ちゃんも大喜び。姉ちゃんなんか﹑「私﹑おなかいっぱ~い食べ
る」ってはしゃいで。僕は幼すきてあまりはっきりとは覚えていな
いから﹑これは後で親父に聞いた話なんですけど﹑スイスに行くと
わかった姉ちゃんの目から一筋の淚が流れて﹑その日は中華を一
口も食べなかったそうです。家に帰ってソッコウふて寝して﹑親父
にボソッと﹑「外人嫌い」って言ったって(笑)。僕は﹑大泣きしたん
だけど﹑おもちゃを買い与えたら﹑すぐに泣きやんだそうです(笑)
外国に行くってことの意味が﹑わかってなかったんでしょうね。
スイスで過ごした6年間
スイスには﹑小学校6年生を卒業するまでいました。住んでんた
のは﹑エーゲンバッハという街。山の斜面に家が建っているような
田舍で﹑ぶどう畑が一面に広がっているような﹑とても自然が豊か
なところでした。気がつくと﹑橫を牛や馬が歩いているような。東
京で生まれ育った僕にとっては﹑かなりのカルチャーショックで
した。日々の食事もぜんぜん合わなくて。小学校のお弁当に﹑母親
がいつもおにぎりを持たせてくれるんだけど﹑日本のお米と違っ
て﹑パサパサしていてあんまりおいしくないんです。スイスの主食
は﹑じゃがいもやパンで﹑それにチーズやフルーツをそえて食べる
という習慣でした。日本と比べてしまうと全般的に食べ物はおい
しくないんですけど﹑チョコレートだけは本場なんで﹑とってもお
いしかった。あまりのおいしさに﹑每日チョコばっかり食べていた
ので﹑スイス時代の僕はかなりぽっちゃりしていました(笑)。
もうひとつ不安だったのは﹑"言葉"の問題でした。スイスの人た
ちはドイツ語を話すんですけど﹑通っていたインターナショナル
スクールでは﹑みんな英語を使っていたんです。ドイツ語はもちろ
ん﹑英語もまったくわからないから﹑学校で友達が笑って話しかけ
てきても﹑"何か悪口を言われてるんじゃないか"って﹑何でもネガ
ディブな方向に考えちゃって。みんなが話している言葉の內容が
わかるようになってきたのは﹑2年生の終わりくらいからですね。
それからは﹑だんだん学校生活も楽しくなっていきました。
でも﹑いろんな国の人間が集まれば﹑いろんな考え方をする人も
いる。僕が日本人という理由だけで嫌う人もいて。なぜかアメリカ
人に多かったんですけど﹑そういう感情ってたいていは親から植
えつけられたものなんですよ﹑戦爭のこととかいろいろあったの
かな。だけど﹑その頃の僕は﹑それか理解できなかったし﹑僕の持っ
ていったおやつを"日本人だから"という理由だけで食べてもらえ
なかったりするのが﹑すごくショックだった。子どもって純真だか
ら﹑ひとりがそういうことをしだすと﹑その空気がどんどん他の子
たちにも伝染していくんですよね。小4のときに﹑クラスの友達の
財布がなくなるという事件が起きたんです。まっさきに犯人扱い
されたのが僕で。だけど﹑担任の先生だったミスター‧ラモントが
「彼はそんなヤツじゃない」って言ってくれました。結局犯人は別
にいて﹑誤解がとけた瞬間﹑それがきっかけで僕の株が上がったん
です。そこからは﹑クラスの友達も僕に心を開いてくれるようにな
った。そして小6の卒業を目前に帰国することが決まって﹑卒業式
を終えた1週間後には﹑日本に帰国していました。
帰国して待ってたものは
帰ってきたらきたで﹑不安でしたよ。その頃は﹑日本語よりも英
語のほうが日常語になっていたし﹑ひらがなは読めても漢字はほ
とんど書なかったし。日本の学校はスイスの学校とはスタート
する時期がズレていたので﹑帰ってきてから中学に行くまでの半
年間は﹑日本の小学校に通いました。でも﹑そこでも軋轢が。まず先
生に「自己主張が強すぎる」って言われたんです。先生から煙たが
られて﹑それがクラスの友達にも伝わって﹑なんとなく僕を疎外す
る空気が生まれた。それでも前向きに学生生活に取り組んでいた
ら﹑小さいながらも体にストレスをため込みすぎて﹑あるとき39度
の熱を出して倒れてしまったんです。病院で診てもらったら﹑"精
神的なものだ"と診断されて。"なんで僕の人生﹑いつもこうなっち
ゃうのかなあ"って﹑そのときしみじみと考えちゃいました。
中﹑高は﹑サッカーに夢中
中学は﹑受験して入りました。そこは中高一貫の学校で﹑サッカ
ーが強く﹑将来はプロになりたいという人たちが全国から集まっ
てくるような学校でした。僕は﹑帰国子女枠の受験ができたから入
ったんですけど﹑どうせなら﹑父が昔やっていたサッカーをやって
みようかなと思ったんです。入部がテストあったんですけと﹑受け
てみたら﹑たまたま受かっちゃって。入部希望者が大量にいたので﹑
その段階で落ちてしまう人もいたくらいのレベルだったんですけ
ど﹑運もよかったんだと思います。僕がサッカー部に入れたことを﹑
誰よりも一番驚いていたのは﹑親父でした。スイスにいた頃﹑親父
は﹑僕があまりにも泣き虫だったんで"サッカーみたいなチームプ
レイは向いてないだろう"と﹑テニスをやらせてたくらいですから。
そのテニスは﹑あまりうまくなかったですけど(笑)。
そして﹑サッカー部に入ってはみたものの﹑そこからがまた大変
でした。日本には﹑先輩後輩という上下関係があるってことをまっ
たくわかってなかったし﹑敬語の使い方も知らなかった。入部した
ての頃﹑ある先輩がプレイをしているのを見て﹑笑いながら﹑「ヘタ
クソ」と言っちゃったんです。スイスではこういう憎まれ口﹑友達
同士の間でよくあることなんです。"がんばれよ"みたいな感じで
言うんだけど﹑日本じゃこういうノリはまったく通じなかった。部
活の後にひとりで呼び出されて﹑大勢の先輩に囲まれて…(笑)。結
局﹑その先輩たちがサッカー部に在籍している間は﹑す~っとにら
まれていました。試合をしていても﹑ボールがこっちに全然パスさ
れなかったりするんで﹑1、2年のときは﹑試合に出れたり出れな
かったり。でも3年のときには﹑レギュラーなることができて﹑
全国大会で2位になりました。その頃から﹑僕の中で将来は﹑プロ
のサッカー選手になることを夢見るようになったんです。
ところが﹑高校に入ってからはとにかくケガ続き。高1のときに
ケガをして﹑やっと治って復帰できたと思ったら﹑さらに高2で
致命的なケガを負った。足首の付け根を骨折して﹑病院の先生から﹑
「これ以上サッカーを続けたら﹑歩けなくなるかもしれないよ」と
言われたんです。そのときの絶望感といったら…。これまでの人生
だって﹑すでにたくさんの山や谷があった。それを何とか乗り越え
てきたけれど﹑今さらサッカーができなくなるってのは﹑いったい
何なんだ。"ちょっとキツイな俺の人生﹑あまりにも不幸だ"って思
ったんです。子どもの頃﹑あんなに泣き虫だったのに﹑このときは
泣くことすらできなかった。人間って﹑本当に悲しいと泣けないん
ですね。それでも﹑痛み止めを打ちながらサッカーは3年生まで続
けて﹑夢だった国立競技場のピッチを踏みました。
俳優という仕事に出会って
大学は﹑サッカーと英語の2芸入試で入りました。けど﹑足の調
子もさらに悪くなっていって﹑結局﹑入部した大学のサッカーは2
か月でやめてしまった。そこでさらにまた落胆したんだけれど﹑こ
れからの人生﹑まだまだ長いんだし﹑次の夢を探さなきゃいけない
と思ったんですね。そのとき﹑漠然とだったけれど﹑海外に行けば
何かが見つかるような気がしたんです。そのためには﹑手っとり早
くお金が稼ぎたかった。そんなとき﹑大学の先輩でモデルをやって
いた人が﹑「じゃあ﹑モデルの仕事をやってみれば」と誘ってくれた
んです。それでモデルをやっていたら﹑突然﹑俳優の道が開けた。
本当にラッキーですよね。だけど﹑実はその幸運を手放しで喜ぶ
ことができない自分もいるんです。目標に向かってがんばってが
んばって﹑やっと夢に近づくと﹑そこには挫折が待っている…どう
してもそんな気がしてしまって。今までがそうでしたから。という
か﹑人生いつもいい時期ばかりは続かないですよね。俳優の仕事は﹑
大変な部分もたくさんあるけれど﹑やりがいがあるし﹑楽しい。で
も﹑そこだけしか見ないで固執し続けるのではなく﹑常に﹑いろん
な分野にもアンテナを張りめぐらせていたいと思うんです。それ
が人間としての厚みにもつながると思うし。今は﹑魅力的な人間に
なることが﹑いい役者になる一番の近道のような気がしています。
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排版段落皆與寫真書相同。
請勿任意轉載!
有錯請指正。謝謝!
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