[新聞]「私が戦争をさせない大人になる」“国

看板MISIA (MISIA - 米希亞)作者 (Endless World)時間2年前 (2023/03/06 04:12), 2年前編輯推噓0(000)
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https://bunshun.jp/articles/-/59882 「私が戦争をさせない大人になる」“国民的歌手”MISIA(44)が紅白にかけた“熱い 思い”《医師一家に生まれて離島で育った、幼い頃の夢は保育士…》  2022年12月31日、紅組のトリを飾ったMISIA(44)。MISIAが最終歌唱を務めたのはこ れで3年目。2020、2021年はMISIAが大トリを務めたが、今年は白組の福山雅治(53)に 譲る形となった。  まず番組半ばで史上初となるディズニーシーとのコラボレーションを披露。そして最 後には大達磨の前で「希望のうた」を迫力満点に歌い切り、日本中を感動の渦に巻き込 んだ。  昨年でデビュー25周年の節目を迎え、充実の1年となったであろうMISIA。出場7回目 を数えた紅白の舞台には、思い入れもあったようだ。音楽関係者が語る。 離れて暮らす“医者一家”家族との固い絆 「デビュー以降はご家族と離れて暮らしているMISIAさんですが、大みそかだけは実家 に帰り、家族と過ごすようにしていた。自分が紅白に出場するようになってからはそれ が難しくなってしまったが、画面越しに家族が応援してくれるから頑張れる、と語って いました。紅白の紅組で歌うことを知ったMISIAさんのお姉さんの子供は『女だから紅 組って決まっとーと?』と不思議そうに話していたとか(笑)。  MISIAさんの家族は福岡でクリニックを営む医者一家。お父さんが開業したクリニッ クを、現在はお兄さんが引き継いでいます。お母さんは小児科医で、お姉さんは歯医者 さん。コロナ禍の中、医療従事者のご家族とは思うように会えないこともあったはず。 この年末も紅白を通して家族に歌を届けることができたのは、彼女にとっても嬉しいこ とかもしれませんね」  あまりメディアに登場せず、過去を語ってこなかったMISIAだが、2019年9月10日号の 『婦人公論』では自分のルーツを振り返り、こう語っている。 《幼い頃に過ごした対馬では、地域医療を志す両親を見て育ちました。急患があれば、 食事中でも駆けつけていたものです。小さい頃から、かけがえのない命の大切さを教え てもらった気がします》  離島で暮らす少女は、いかにして“平成の歌姫”となったのか──。  1978年に3人兄妹の末っ子として誕生したMISIAが、離島の対馬へ渡ったのは5歳の頃 。「離島でも最新の医療を受けられる体制を作りたい」という父たっての希望で、家族 で移住した。 「幼い頃の夢は保育士」離島病院の保育所をお手伝い 「MISIAさんのご両親はともに、長崎県離島医療圏組合いづはら病院に赴任。年の離れ たお兄さんとお姉さんが中学卒業とともに県外の高校へ進学すると、MISIAさんは兄妹 でたった一人島に残ることになった。院長を務めるお父さんはもちろん、お母さんも島 で唯一の小児科医だったので、急患があれば夜中でも駆けつけなければならない。夜中 に家を出るお母さんを、寝たふりをして見送ることもあったようです」  そんなMISIAの幼いころの夢は意外にも「保育士」だった。 「MISIAさんのお母さんは、働く医師や看護師のためにと、当時は珍しい“院内保育” を作った。ご自身の経験から、仕事と子育ての両立の難しさを分かっていたからでしょ う。MISIAさんは子供が大好きで、夏休みになると病院の保育所を手伝いにきていたそ うです。こんな保育園を作りたいという設計図や、女の子の制服のデザインを描いて、 夢を膨らませていたとか」  しかしある音楽との出会いが、MISIAの人生を一変させることになる。 MISIAが衝撃を受けた「ゴスペルの一節」 「MISIAさん家族は音楽一家でもあります。ご両親は学生結婚しているのですが、その 出会いのきっかけとなったのがコーラスサークルだったこともあり、いつも家には音楽 が溢れていたそうです。お父さんはジャズ、お母さんはカーペンターズやダイアナ・ロ スといった洋楽ポップス、お姉さんは邦楽ポップスなど、家族それぞれが好きな曲を聞 いたり、家族みんなで輪唱ごっこをしたりして楽しんでいた。MISIAさんも歌が大好き で登下校時には大自然の中で反響するくらい大声で歌っていたそうです」  そして出会ったのが“ある一節”だ。 「9歳から対馬の合唱団にも所属していたそうですが、あるときゴスペルミュージカル 『Mama' I Want to Sing』の一節がコマーシャルで流れているのを聞いて衝撃を受け、 『歌手になる』と宣言。ご家族もレッスン先を探すなどして、彼女の夢を応援したそう です」  大きな夢を抱いたMISIAは、中学3年生で島を出て、大学生の姉が暮らす都会、福岡へ 。両親の「本格的な活動は大学から」という希望もあり、高校時代はボーカルレッスン を受ける日々を送った。 「黒人の先生からレッスンを受ける中で、MISIAさんは『頭で歌うのではなく、心で歌 う』ことを学んだそうです。大学に入学して間もなくの5月にオーディションを受け、8 月にはもうレコード会社が決定。1998年、19歳で“メシア(救世主)”と“ASIA(アジ ア)”をかけたMISIAの名で、『つつみ込むように…』でデビューすると瞬く間にスタ ーダムを駆け上がり、日本のR&Bブームの火付け役となったのです」  2021年に行われた東京オリンピック開会式では国歌を独唱し、世界を魅了したMISIA 。 “国民的歌手”と認められるようになった背景には、彼女が音楽活動だけでなく、 子供の教育支援やアフリカへの支援など、社会貢献活動を積極的に行ってきたことも関 係しているだろう。MISIAが世界の社会問題に関心を寄せるようになったきっかけもま た、対馬時代にあるのだという。 「私が戦争をさせない大人になる」子ども時代に綴った思い 「MISIAさんが小学生の頃に、世界では湾岸戦争が勃発。当時のテレビのニュースで兵 士の死者数よりも子供のほうが多く亡くなっていると知り、作文に『私は子供のまま死 にたくない。私が大人になるまで戦争はしないで。私が戦争をさせない大人になるから 』と綴ったそうです。  また同じ頃、ゴスペルやソウルといった音楽への興味を深める中で、アフリカの飢餓 や貧困問題を知った。自分と同じ子供がなぜ、そのようなつらい環境に身を置かなくて はいけないのか。MISIAさんにとって、世界で起きている戦争や貧困という問題は決し て他人ごとではなかったのでしょう」  2022年はロシアとウクライナによる戦争が始まった「戦」の年でもあった。 「MISIAさんもウクライナの人々が置かれた状況に心を痛め、チャリティTシャツを販売 するなど、日本からできる支援に取り組んでいました。紅白で披露した新曲、『希望の うた』の<握りしめているもの 希望というもの 誰にもわたさない 誰にも奪えない >という歌詞には、平和への希望を捨てないでという、MISIAさんのメッセージが込め られていたように感じました」  MISIAは前述のインタビューで「歌って人の幸せを願うこと」と語っている。第二次 世界大戦の犠牲となった長崎県の離島、対馬で暮らした “平成の歌姫”は、令和の時 代も平和を願って歌い続ける。 -- https://www.facebook.com/MISIAnews MISIA 情報彙集應援專頁 -- ※ 發信站: 批踢踢實業坊(ptt.cc), 來自: 123.193.140.219 (臺灣) ※ 文章網址: https://www.ptt.cc/bbs/MISIA/M.1678047128.A.8A0.html ※ 編輯: CrystalDays (123.193.140.219 臺灣), 03/06/2023 07:13:07
文章代碼(AID): #1a1FUOYW (MISIA)
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